残雪『黄泥街』

 その夜は月もなく星もなかった。斉婆はごみの山のなかに立って、事務所の窓のカーテンが風をはらむのを見た。なんだか黒い怪しい鳥が舞い上がり舞い下りしているようだ。市内の大時計が二時を打ち、ごみの山のなかでだれかがうなり声をあげた。斉婆は音のした方めがけて、石炭掻きでどんどん掘っていった。
「ありゃあ」そいつがうなった。しかし、そいつはごみのなかにはおらず、事務所の壁に貼りついていた。
「同級生、なにを掘ってるんだ?」幾分なじるような声。なんと区長だった。区長は行ってしまったのではなかったのか? 区長がどうして王四麻で、王四麻がまたどうして区長になったのだろう? その昔、肉屋をしていたある屠殺夫が、金持ちのなりをして黄泥街に客に来たことがある。よばれた家にすわったら、背中から豚の油がじくじく流れだし、半時間もしないうちに全身がぎたぎたしてぷんぷんにおい、いい面の皮だった。斉婆は寝る前までこの王四麻の問題をああだこうだと考えていたので、背中に汗をかいてしまった。起きだして台所でしばらくゴキブリ退治をしてからやっと寝たら、頭を枕につけたとたん、鼠が頭の皮をかじる音が聞こえたのだった。「今夜は暗いね」彼女は狐につままれたような思いで答えながら、男がなぜ自分のことを「同級生」などとよぶのかといぶかしんだ。はて面妖な、この怪物、壁にへばりついているこの蜥蜴は、どうして黄泥街に来たのだろう? そんなやつに自分はむざむざ靴まで贈ってしまった。斉婆は帰ろうとしたが、ごみの山のなかでたくさんの蔓が足に絡みついているらしく、どうしてもぬけない、ぬこうとするたびになにかがうめき声をあげる。
「もと市立十二中学で門番をしていたじいさんは、農薬を飲んで死んじまった」壁の男は落ち着きはらっていった。斉婆は風のなかにかすかにわきがのにおいを嗅ぎとった。
 彼女は暗闇のなかに立ち、瓦礫をかじりながらいった。
「黄泥街じゃ、いつも疫病で人が死んでるよ。さっきまで元気だったのが、ころっと逝っちまう。表はぴんぴんしてるように見えても、中の臓腑は腐りきってるのさ。上部が検査に来たことがあって、このあたりにはなにか病毒があるんだとさ。水のなかにも空気のなかにもね。このごみの山には髑髏が十も埋まってる。毎晩ここを往ったり来たりしてると、連中がうめいてるのがきこえる。今じゃ、黄泥街じゅうに鬼の描き筆がはびこって、天井の梁にまで生えてるよ。ごはんを食べるときも、ちょっと油断をすると茶碗のなかに落ちてくる。おそかれはやかれ、わたしらはみんな毒にやられて死んじまうよ……立ち退いたところでどうなるというのさ。鬼の描き筆はやっぱり生えてくる」
「この風のにおいはなんだ?」
「墓場を吹きぬけてるのさ。死体焼却炉の油煙のにおいかねえ? ひえっ、ぞっとする! もと猫を一匹飼ってたら、鼠の群に食い殺されちまった、ここの鼠はたまげるほどでかいよ!」
 王四麻はその後、本当に行ってしまった。どうして行ってしまったのか? 斉婆におどかされたからだ。やつはSの壁にへばりついていたが、斉婆が真夜中に起きてそれを見つけ、いくつか質問したところ、答えられずにたちまちずらかってしまったのだ。
(この章了)

↑を読んで面白いと思ったら、図書館で借りて読んでみるといい。残雪天才。

黄泥街
黄泥街
posted with amazlet on 08.03.21
残雪 Canxue 近藤 直子
河出書房新社 (1992/11)
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徹頭徹尾こんな感じで支離滅裂。なのに、凄まじく面白い。脳みそが湧き上がる。そして、眠い。おかげさまで、たかが250ページ読むのに、たっぷり1ヶ月かかった。毎日寝る前に数ページずつしか進めないから。
中国の小説。ストーリーを説明するとすれば、S機械工場のある黄泥街が、ごみにあふれ、汚物にまみれ、気が狂い、薬物に冒され、疫病にかかり、死に絶え、消え去る話。幻想小説のふりをしながら、公害を告発する小説。
この物語に出てくる登場人物は、誰もまともに会話しない。常に悪夢を見、独り言を垂れ流し、人を疑い、妄言に踊らされる。誰かがつぶやいた妄想や独り言が、ほかの誰かの耳に入ったとたんに、それが意味あるものとなってしまう。たとえば、胡三じいさんが夢を見て突然発したひとこと(「立ち退き?」) が、住民をパニックに陥れたりする。管理社会、全体主義の影も垣間見える。
マックリアリズム、というのは、現実を描くための一手法で、描かれていることはあくまでも現実なんだと、私は思っている。バルガス=リョサ『世界終末戦争』や、映画だけどティム・バートンビッグ・フィッシュ』、石井克人茶の味』を見れば、ガルシア=マルケス百年の孤独』も、イザベル・アジェンデ『精霊たちの家』も、とってもリアルな物語だということがわかる。誰の目を通して見た現実が、誰の口から紡ぎだされた言葉なのか、というのが問題なだけで。
「公害」という概念がなければ、その病は呪いか魔法のようにしか見えないだろう。何事かを知っている政府や工場の面々の行動は謎でしかなく、不気味にうつるだろう。
というわけで、この本を読んでいる間中、テレビで農薬入り餃子事件が報道されておったわけです。この本と、その報道の間に、ものすごくリアルな中国の姿が立ち上がるのでありました(´Д`;)。り、リアルすぎるよ……orz。
残雪の『暗夜』は、池澤夏樹の「世界文学全集」にも収録されるそうです。
http://www.kawade.co.jp/sekaibungaku/
楽しみですね!(事務的に)