映画『風立ちぬ』

「ヒコーキは戦争や経済の道具ではない」「夢の結晶」「美しくあらねばならない」
二郎がカプローニに語らせる、夢の言葉。

風立ちぬ』は徹底的に近視眼的な主観の映画だ。二郎にとって都合が悪い部分は全く描かれない。試作機の失敗や、飛行機が戦争の道具になる実態など。知りながら目を逸らしつづける。だからカルローニに言わせる台詞がぎりぎりと胸を穿つ。菜穂子のことも、良かった思い出の集約であっていい。そこが徹底していて、素晴らしかった。

実際、彼らが飛行機を設計するための潤沢な資金は、子供も飢える世の中にあって、純粋に戦争のために捧げられたものだということに言及されるし、彼らがしばしば口にする「日本はどこと戦争をするつもりなんだろう?」「機関銃さえなければ」という言葉は、その人生を賭けた空飛ぶ夢の機械が、人殺しの道具であることが運命付けられていることを認めている。
だが、映画では、飛行機開発に関わる部分だけが描かれ、戦争に関するきちんとした描写は全くない。彼らの戦闘機が戦う姿も描かれない。試験飛行を別にすれば、夢の中で飛び交うだけだ。

でも、私たちは知っている。あの飛行機に殺された無数の人々や、あの飛行機に乗って死んでいった無数の若者たちのことを。

ラストシーン。草原でたたずむ二郎とカプローニが見る遠い空に、無数の飛行機が舞っている。帰ってこなかった飛行機の分だけ、それ以上の死が、彼らの夢の機械と共にあった。そこにやってくる既にもういないはずの菜穂子。生きていたのに、死んでしまった人たち。

二郎は、きらきらしてまっすぐで無垢で、夢をかなえる才能も人徳もあり、一生懸命それに取り組んだだけなのに、それを可能にしたのが戦争という時代であり、結果、人殺しに加担せざるをえなかったという皮肉と虚しさ。ぬぐいきれない罪。

きらきらした部分だけが描かれているからこそ、描かれていない部分の残酷さが際立った。
そこを補完するのは、見ている「私」だから、人によって全く違う風景が思い浮かぶのだろうけど、まだ私たちの世代は、あの時代に戦争があったことを知っているから。

時代が悪かったのか、たまたまその時代だったのが幸いしたのかは、今となってはそこを評価しても意味がない。戦争は実際にあったし、戦争がなければあの飛行機は生まれなかった。時代と人生は切っても切り離せない。

どんな時代に呑まれてしまっていても、その中で一生懸命生きる事、1人の人間に出来るのは、結局それだけなのだと思う。重い罪を背負いつつも。「生きねば」という言葉に込められたメッセージを、私はそういう風に受け取った。

可能なら、そんな戦争の時代にならないようにと思い、祈りつつ。

飛行機のSEを人間の声で……というところで、大林宣彦の『この空の花』を思い出した。『この空の花』の中で、爆弾と花火として描かれたモノが、この映画では飛行機、ということなのかもしれない。どちらも、戦中世代の「感覚」を、戦後世代が受け継いでいくための媒体として、とても大切な映画だと思う。「まだ、戦争には間に合いますか?」

戦争を全然知らない世代は、私たちの両親の代からで、それ以前の世代は必ず一生のうちに一度は戦争の時代を経験している。国土の形が、(沖縄返還から)40年間かわっていない日本という国は、今、世界的にも稀に見る「平和」のなかにある。私たちは、実はとても貴重な時代に生かされていることを実感した。

ところで、予告では棒読みすぎて心配だった庵野秀明の声は、最初こそ違和感をおぼえたものの、菜穂子とのラブストーリーに入ってからは、これ以上はないはまり役に聞こえてくる不思議。特にラブシーンのささやき声は、あまりのセクシーさに背筋がぞくぞくするほど。声質だけで言えば、庵野秀明の声は悪くないけれど、演技力はもちろん、舌滑さえおぼつかないアニメ監督に、なぜ白羽の矢が当たったのかはさっぱり知らないけれども、最高のキャスティングだと思った。大根役者がはまると破壊力がすごいね(『雨あがる』の三船史郎のように)。

ジブリ映画としてではなく、映画として十分に好きな一本だった。いい映画だった。

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