『ふがいない僕は空を見た』制作者が映画に込めた意味と、映像が受け手にもたらす物語。「作者は作品について語るな」ということ。

ふがいない僕は空を見た (新潮文庫)
窪 美澄
新潮社 (2012-09-28)
売り上げランキング: 1847
http://www.fugainaiboku.com/
原作を読み終えての感想は、映画を先に見ておいてよかった、ということだった。映画から私が受けた物語と、原作の登場人物たちの一人称での語りは、随分と違っていた。もちろん、映画は原作をそのまま映像化したものではなく、内容も大胆に変えられているから、例えば映画の松永と原作の松永が同じようなことを考え、行動していたわけではない。映画の松永はあくまで映画の松永だ。もし仮に映画を見る前に原作を読んでいたら、私は映画の松永に原作の松永を探すような見方しか出来なかっただろう。斎藤も、あんずも、福田についても同様に。映画から私が読み取った物語は、私の心の内からあふれた物語だった。仮に、それが原作者や制作者の意図したものとは違っていたとしても、私にとっては真実だ。
ところで、この映画では、「贈り物」を介したコミュニケーションが多く登場する。中には差出人不明で、無言で届けられ、登場人物を翻弄し、苦悩させるものもある。映画の中では明示されずとも、誰からのものなのか、その意図が明らかなもの(UPしたのは旦那。あんずはコスプレなしのセックスを見せ付けることで、UPのリスク(彼を利用し、犠牲にすること)を省みず、離婚を獲得し、一人街を出た)、観客にだけは示されているもの(ビラ)、などさまざまだ。
原作を読んだ上で、二度目を見て、一つ気になった点をメモしておく。ただし、2回没入してみただけなので、時系列や描写があっているかどうか自信はない。まるっきり見当違いかもしれない。

終盤の弁当について。
原作では【やっと登校した斎藤がいじめられたのを福田がかばう→「おふくろから」というメモと共に斎藤が届ける】となっている。
映画版では斎藤の登校は映画のラストなので、【斎藤が不登校のままの教室で、斎藤を揶揄する級友と福田が喧嘩になる(斎藤親子はこれを知らない)→ボコボコの福田が斎藤の家に押し入り(母がそれを見る)、ベッドで丸まる斎藤を「自分が世界一不幸な顔をするな!」と罵倒する(原作では松永がこれを行う)→福田の家に弁当が届く】となる。
さて、映画版の弁当は誰が、なぜ届けたのか。斎藤なのか、斎藤の母なのか。その理由は何なのか。
初見では、何の疑問もなく、斉藤母が作り、斎藤が届けたと見ていた。二回目では原作との差異から、ふと違和感を覚えた。
斎藤がこれまで福田に渡していた弁当は母からのものだったし、斉藤母が作り、福田の家まで届けた、と考えるのが自然かなあ。なぜあのタイミングだったのか。斉藤母も福田の息子に対する罵倒を耳にしていたからなのか。息子のことを面罵するほど気にかけてくれるありがたく貧しい親友だったからなのか。届けたのも斉藤母なのか(引きこもり状態で、福田とのコミュニケーションが取れなかった斎藤に、福田の団地まで届けることは可能だったんだろうか)。斉藤母自身にも、あのタイミングで他人の子を思いやる余力があったとは考えづらく……。うーん、でも彼女ならやるかな。
でも、私は斉藤が作り、届けたものだとなんとなく考えてしまった。だとしたら、なぜか。福田の罵倒を素直に心配してくれたと受け取ったのか?それとも、「自分より不幸な」福田君への返礼だとも解釈できないこともない。作るのは母親にしか無理かもしれない。でも、序盤の弁当(茶色っぽい煮物が多くてあまりおいしそうじゃない感じ)と違い、ホイルかラップに包まれたおにぎりであれば、誰にでも作れる。斎藤自身が作ったものだとしたら、何を思い、どんな風に感じながら握ったのか。それを想像するだけで、ものすごい「物語」が立ち上がってしまって、ものすごく萌える。
(※私には腐の方面の趣味はないです)
弁当が誰からのものであれ、それを貪り食う福田と阿久津。あの時、あの場所で、どんな味がしただろう。

というようなことを、おそらく、制作者であれば、「あれを贈ったのは誰々です」と明確に答えることはできるだろう。物語の中に行為者がいなければ、あの時あの場所にあれは存在しないのだから。でも、物語中で、画面でも登場人物に対しても確定されていない「過去」ならば、明かされる必要はない。「誰です」と特定された瞬間に、明示されないからこそ、受け手の中に広がっていた物語が全て否定されてしまうから。
作者は作品について後から語るな、ということの一つの理由はこういうことだと思っている。公開された時点で、作品はそれぞれの受け手の中で、それぞれの独自の物語を形成してしまっているから。それを制作者は簡単に取り消すことが出来てしまう。
もちろん、私もオーディオコメンタリーやインタビューなどで裏設定とか制作過程、試行錯誤の段階的な様子を知るのは大好きだ。でも、敢えてぼかされていることを、「実は誰なんですか?」と聞くことには、積極的に否定したい、時もある。
というようなことを考えたのでした。
3度目は来年1月から神戸で公開される時に見て、あれの内容を確認したい。