お話の中の奇跡は誰のためのものなのか。―映画『虹色ほたる』と『さあ帰ろう、ペダルをこいで』

両作品とも、「交通事故で親を失った子が、爺ちゃんの助けを得て、回復する話」だった。
※『虹色ほたる』の結末には触れることがあります(同色反転で記述します)。
※『さあ帰ろう、ペダルをこいで』については、そこまでのネタバレはありません。多分。

さあ帰ろう、ペダルをこいで』は、今年に入ってから見た映画の中で、ダントツ1番素晴らしい映画だった(但し、あまりにも特殊で別格な『ニーチェの馬』(→感想)を除く)。

ドイツで交通事故にあい、両親を亡くし、記憶喪失になった孫(もう大人)が、ブルガリアから訪ねてきた祖父とともに、タンデム自転車で祖国を目指すというお話。
私はブルガリアという国について、ほとんど何の知識もなかったのだが、そこはかつて「東側」の小国だった。なぜ、親子がブルガリアから(西)ドイツへ渡らざるを得なかったのか、なぜ祖父と孫が離れ離れで暮らしていたのかが、孫の記憶の回復とともに少しずつ明らかにされていく。冷戦時代の亡命を扱った映画としても、とても衝撃的で、わかりやすかった。国家に引き裂かれ、翻弄される家族の姿は、とても痛ましい。
そして、この映画の一番の特徴は、「バックギャモン映画」であるということだ。私はバックギャモンについても全く何も知らない。でも、この映画にBGMのように「バックギャモン」というゲームの存在と、リズムが流れていることは、とても強く強く感じられた。ゲームのシーンや盤面の展開はほとんど出てこないにもかかわらず、この映画は全体として、すごい深度で「バックギャモン映画」だった。
バックギャモンとは、二つのサイコロを振り、その出目の個数の駒をプレイヤーが動かすゲームらしい。サイコロの出目は運、駒の動かし方は裁量。いくらいい目が出ても、プレイヤーの腕で展開が決まる。逆も真なり。悪い出目でも、動かし方で逆転もあり得る。
この映画で一番「ゲーム」を感じるのは、「一度手を進めたら、もう後戻りできない」ところだ。
大きな大きな決断をする(ゲームの開始)。一か八かの行動(サイコロを振る)。絶体絶命!でも、奇跡的なこと(※超常的なことではない)が起こる(6ゾロだ!!)。喜び勇んでその幸運に感謝して、先へ進む(駒を進める)。……しかし、そこはババだった……。「今の手はなし!!さっきの手はなしにして、もう一度サイコロを振りなおさせて!!」(こんな台詞はないけれど)と泣き叫ぶ。しかし、それはルール違反だ。自らが選び取ったその盤面で、次のサイコロは振らなければならない。時間を戻すことはできない。行為をなしにすることはできない。さあ、またサイコロを振るんだ……。たとえ勝ち目がなくても。
映画の中でも、いい目が出るときもあれば、悪い目が出るときもある。決死の行動のあと、1ゾロが出て、つぶされてしまったり。しかし、ゲームが終わるまで、人はサイコロを振り続ける。
そんな感じで、「バックギャモン」なのだ。ちゃんとゲームを知っている人からしたら、間違っているかもしれないけれども。
人生には、いいことも悪いこともある。それは人には制御できないことだ。が、そこからどう行動するかは、自分自身で決めるんだ。
村のバックギャモンのチャンピオンの祖父は、ゲームを開始する前で立ち止まってしまった孫に、そう伝える。
#ちなみに、この祖父は若い頃に自転車競技の国内チャンピオンになって、東ドイツに留学の経験があるという設定。とってもパワフルなのだ!
本当に素晴らしい映画だった。上映館が少ないのが、とても残念。
 =>つぶやきのまとめ。『さあ帰ろう、ペダルをこいで』ブルガリアのバックギャモン&自転車映画 - Togetter
この映画で、視覚障害者向けの上映も行われるそうだ。

その二日前に見た『虹色ほたる』。

映像は、その特殊な作画も含めてとても「魅せる」ものだったのだけど、ストーリーはド直球。畳み掛けるような泣かせの展開(原作はWeb小説だそうで、なんとなく納得)も、ハイクォリティの画面(キャラクターの演技、背景の演出等ふくめ)に支えられて、「よっしゃ、そこまでやるんやったらつきおうたるわ」と言わされるような、驚きの力技。これは家で見たら白けるかもだけど、劇場映画なんだし、劇場の暗闇であの風景や蛍の光で圧倒されるのであれば、それはそれでOK!
以下、ラストに触れます。

ただ、最後の展開は……。
思い出すはずのないものを思い出し、見えなかったはずの目が開く。それはあまりにもありえない、奇跡。
奇跡的なことが起こってはいけない、というわけではないし、二人の愛の力とか、頑張った?二人へのご褒美…。うん、それもわかる。彼ら二人は、その後幸せに暮らしましたとさ、というハッピーエンド。多分、誰もが望む「映画のおしまい」の形。
でも、そんなありえない奇跡がなくても、二人は強く生きられたのではないかしら?事故の後遺症で目が見えなくても、彼女はあの時「生きる」ことを選んだんだから。あの魔法の時間の記憶がなくても、何もかも忘れた状態で二人が出会っても、もう一度最初から恋をしたっていいじゃない。
私たちの世界に、神様によるほどこしはない。お話の世界と、「ここ」は違う。
そんなことは当たり前だ。お話はお話で「ハッピーエンド」が気持ちいい。それもわかる。でも、ああしなくても、充分に二人の強さを本編で描けていたんじゃないかなあ?
事故で目が見えなくなってしまったことは、とても悲しいことだ(サイコロの出目)。でも、彼女は生きることを選んだ!(駒を進める)だって、泣き叫んでも、時間は戻らない。自分の選択は「生きること」なんだから。きっと描かれていないところで、とても大きな葛藤を乗り越えたに違いない。そしてまた、サイコロを振り、歩き始めたのだ。その場所から。きっと、力強く。私はそう思った。
目が開く奇跡が必要だったのか。
その奇跡が、今まさに苦境のまっただなかにある人に、どんな風に映るんだろう?
もちろん、制作者はそんなもろもろの選択肢の中から、敢えてこの「奇跡」のラストを選んだんだろう。
私は、それに隔たりを感じてしまったのでした。

虹色ほたる』は是非劇場でどうぞ!
虹色ほたる』のすごいところは、あの内容なのに、ちっともダムヘイトものにも、環境保護ものにもなっていないところだと思う(単に、私が全く気にならなかっただけかも)。諦念とノスタルジーと、寂しさと悲しみだけがあって、葛藤や対立が全く感じられない。それが不自然じゃなかった。すごい。これは特筆すべきところだと思った。

メッセージはありません。これはただ映画であり、もしそれが観客の心に触れて動かすようなことができれば、我々はパーフェクトな仕事をしたと思います。で、結果がでなければ我々は間違っていたのだと思います。
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